カメラマンになるまでのきっかけやこれまでの経緯


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カメラマンになるまでのきっかけやこれまでの経緯

2020年11月11日

「カメラマン/フォトグラファーになるにはどうしたらいいのか?」「独立してプロとしてやっていくにはどうすればいいか?」など聞かれることがあります。

写真学校、カメラマンのアシスタント、スタジオアシスタント、独学…いろいろとインターネットには情報がありますが、私のこれまでの経緯を書こうと思います。
今の時代はアシスタントをしないで自力、独学でプロのカメラマンになる人も多いと思います。また、ひとくちにプロカメラマンといっても様々な分野、仕事があり、経歴も千差万別です。一つの参考になれば幸いです。

簡単に書くと、私は子供の頃から写真やカメラに全く興味がなく、写真学校も出ておらず、フリーターをしていた22〜23歳の頃に思い立って撮影現場でアルバイトを始め、勢いで右も左もわからないままカメラマンのアシスタントとして写真の世界に飛び込みました。

 

写真をはじめるきっかけ

大学を卒業(2001年)してしばらくするまで、写真よりも映画の方が好きで、大学でも映画(黒澤明)をテーマに卒論を書いたほどです。映画のストーリーというよりビジュアル、映像美の方に興味があり、特にミケランジェロ・アントニオーニ監督の映画が好きでした。他にも、写真家としても知られている映画監督ラリー・クラークの作品が好きだったり、ウォン・カーウァイ監督の映像が好きで、その撮影を担っていた撮影監督クリストファー・ドイルは写真家としても作品を出していたり、そういうのを見ながら映画から写真に興味が移っていきました。ミケランジェロ・アントニオーニ作品の中で一番好きな『欲望』という映画はファッションフォトグラファーが主人公で、その撮影シーンが抜群に格好良くて何度も観ました。
※『欲望』の原題『BLOW-UP』は、写真用語で「(写真の)引き伸ばし」という意味です。

もともと音楽をやっていたので、時間軸がない絵や写真といったアートよりも、単純に音と時間の概念が加わった映画という表現方法の方が性に合っていたのかもしれません。

映画好きだった私が自分で写真を撮ってみようと思ったきっかけは、本屋でアルバイト中に偶然手にした森山大道さんの「犬の記憶」という本です。名前も知らなかったのですが、その文章と写真に興味が湧き、写真を撮るのって面白いかも…と思い、早速中古で安いコンパクトカメラを買って写真を撮るようになりました。(後に森山大道さんがきっかけで写真の世界に入る人が多いということを知りました。)

そのうちに写真に関わる仕事をしてみたいと思うようになり、本屋でのアルバイトをやめ、求人情報を探し始めました。

今から思うと、ちょっと写真が撮れるようになっただけで、無知で勉強もしないまま、一丁前に写真の仕事に…なんて思ってしまうのはとても甘い考えで、実際「仕事」ができるようになるまで長く厳しい道のり、好きなことを仕事にする葛藤や苦しみが待っていました。

ただ、この頃なぜか暇つぶしにカラーコーディネーターの勉強をしていて、その資格を取っていたことは、後々写真の仕事に大変役に立つことになります。(3級〜2級の勉強をしていて、3級に合格。)

大阪・ストリートスナップ
大阪・ストリートスナップ

写真をはじめたばかりの頃に撮影していた大阪のストリートスナップ

 

通販カタログの撮影現場

当時大阪に住んでいたので、他の地方都市に比べて写真に関する求人は多かったと思います。その中で初めて撮影に関係する仕事(アルバイト)をしたのは、通販カタログの商品管理の仕事でした。

一冊まるごと1ヶ月くらいかけて撮り切るとても大掛かりな撮影で、大手印刷会社の倉庫のような巨大なスタジオにカメラマンが何人も集まり、それぞれ区分けされた撮影ブースで次々と進行表、指示書に沿った商品撮影をしていきます。

撮影のアシスタントではなく商品管理なので、撮影の様子を遠目に見ながら、商品の開封〜組み立て、そして進行表に合わせて撮影ブースに商品を持っていっては、終わったものをバラして梱包していく、というのが仕事です。
商品も小さいものから家具まで大小様々で、大道具さんやスタイリストさんが来て部屋のセットを組んでインテリア撮影をしたり、モデル撮影を行うこともありました。
とにかくあちこちでいろんな種類の撮影が進行しているので、見ているだけでも新鮮で、これまで自分が関わったことのない華やかな世界に見えました。

それまでカメラマンの「仕事現場」というのを見たことがなかったので、休憩時間中にワクワクしながら撮影ブースを覗きに行ったり、ちょっと用事があるふりをして意味なく歩き回ったりして仕事ぶりを見たりしていました。

この仕事は、大阪で数回、東京でも1回経験しました。
商品管理の仕事とはいえ、やはりそこに集まる人たちは写真好きが多く、カメラマンを目指している人とか、カメラマンとして独立したけど仕事がない時期に短期で来ている人などもいて、そんな仕事仲間との雑談も楽しかったのを覚えています。

大阪・ストリートスナップ

カラーで撮る大阪の街も面白かったです。

 

ホテルの写真室での見習い

時系列は前後しますが、私も独立後、まだ仕事が十分なかったときに、とにかく写真関係の仕事をしなければと、ホテルの写真室でブライダルカメラマンの見習いをしたことがあります。自分が目指しているのとは違う方向の仕事でしたが、ここで学んだことも大きかったです。

挙式、披露宴、前撮りはもちろん、ホテル内のスタジオなので集合写真の撮り方、記念写真としてのポートレートの撮り方など学びました。スタジオ撮影ではライティングはいつも固定で決まったスタイルなので、その技術よりも、「人」に関すること、服装や姿勢によるポートレートの「型」、被写体とのコミュニケーションの取り方、写真慣れしていない一般の人を綺麗に撮るテクニック、などです。

実際の挙式、披露宴の現場に出たことはありませんが、先輩のカメラマンが撮影した写真を何万、何十万枚と見て、カメラマン毎の撮り方の違い、レンズの違い、スナップ撮影におけるシャッタースピードと絞りのコントロール、アングルや画角の工夫の仕方などを働きながら勉強することができました。

 

カメラアシスタント時代

商品管理の仕事を経て、本格的にこの世界へ飛び込んでみたい、という気持ちがますます強くなり、求人誌で見つけたアシスタント募集に応募し、晴れてカメラマンのアシスタントをさせてもらえることになりました。

まだコンパクトカメラやトイカメラ、ボロボロの昔のカメラくらいしか触ったことがなく、露出、絞りやシャッタースピードも分からないような私を採用してくれて、育ててくれた師匠に感謝します。正直に言うと、経歴や実績、どんな写真を撮っているのか知らないまま、求人条件だけを頼りに飛び込んだのですが、師匠は東京の六本木スタジオ出身、著名なカメラマンに師事して独立した人で、経験豊富で何でも知っていて何でも撮れてセンスも良く、今でも私は師匠には敵わない、少しでも近づきたいと思っている存在です。

一般求人誌のごく小さな情報からこのようなカメラマンに出会い、アシスタントとして仕事をさせてもらえたことは本当に運が良かった思います。

チラシ、広告、カタログなどの商品撮影を中心にいろんな経験をしました。
その頃はフィルム〜デジタルへ移る過渡期で、スタジオにはフジの中判フィルムカメラGX680という見たこともない大きなカメラでポジフィルムで撮影をしていて、スタジオ用の何台ものストロボはもちろん、大きく重いカンボのカメラスタンドなどその設備に驚きました。
そんなスタート地点に立ったばかりの若者に、なんと勤務初日からカメラを触らせてくれて、簡単な商品撮影から本番カットのシャッターを切らせてくれました。デジタルではなく、撮り直しができないフィルムです。

基本的な一日の流れとしては、朝に現像所からあがってきたフィルムをチェックし前日の撮影写真を確認、OKカットを切り取って広告代理店へポジを納品、次の撮影商品を引き取り、帰ってきて撮影、その日の終わりに現像所の方がスタジオに来て撮影済みのフィルムを渡す、というルーティーンでした。撮影が深夜に及ぶときは自転車で現像所まで行って夜間ポストにフィルムを入れて帰りました。

まさに印刷会社のスタジオで見ていたような撮影内容でしたが、スタジオでの商品撮影だけでなくインテリア撮影、モデル撮影、出張、ロケ撮影、個人依頼の撮影までいろいろな経験をしました。

当時はデジタルカメラのようにとりあえず撮ってみて画像を確認、ということができないので、露出計やカラーメーターを使ってライティング、ストロボの光量や色温度の確認、フィルムの感度(ISO)、カメラの絞り、シャッタースピードの設定を慎重にする必要がありました。アシスタントとして失敗は許されない、という緊張感がいつもありましたが、露出が合っていなかった(明るすぎ/暗すぎ)のをはじめ、写っていなかった、撮り忘れていた、フィルムの装填ミスなどの失敗も度々ありました。

その間徐々にフィルムからデジタルに変わっていき、わずか一年ほどの間にデジタル撮影、デジタル納品が半分以上を占めるほどになり、フィルムとデジタルの特性、扱い方、仕上がりの違いを試行錯誤しながら身につけていき、Photoshopでの後処理、ファイル管理といった作業も増え、目まぐるしく環境も変わっていきました。
その移行期にアシスタントをしていたことは写真人生の中でも一番大きな収穫があったと思います。

アシスタント時代はカメラ、写真に関することだけでなく、スタイリングやインテリアのこと、雑貨、家具、プロダクトデザイン、建築、生活文化に関する多くのことを知り、造詣を深めることができました。世の中にはどんなものにも写真が使われて溢れているのだから、写真雑誌、カメラ雑誌だけじゃなく日常で目にするあらゆる写真というものを目を凝らして見て、その撮り方を考えてみる、という姿勢も。
また、「一日一枚は、仕事じゃない写真を撮るといい」というアドバイスもずっと心の中にあります。(実践できていない自分が恥ずかしいですが…)

スタジオ モデル撮影

アシスタントをやめた後、自分でスタジオ撮影にも挑戦

でもその後何年も経って、まだまだ全然経験が足りなかった、アシスタント卒業が早かったと後悔したものです。卒業どころか中退ではなかったか、と。

 

写真作家としての活動

自分の撮りたいものを撮って発表する「作家」「アーティスト」としての活動もアシスタント時代からずっとしていました。
仲間内でグループ展をしたり、カフェやギャラリーで個展を開いたり、ポストカードブックという作品集を作ったりもしました。
アシスタントを卒業して間もない時期に、大阪の天王寺ミオで開催された「ミオ写真奨励賞」というコンテストでグランプリを受賞したことも大きく意識を変えるきっかけになりました。

その頃の私はまだ内輪で活動しているだけの状態でしたが、そのコンテストで知り合った人たち、同じ受賞者の人たちは、写真学校を出ていたり、既に何年もキャリアがある人だったり、同じテーマをひたすら追い続けて、写真のためならどこへでも出掛け何でもするという人たちでした。今でも作家活動を続けている人、その後木村伊兵衛写真賞を受賞するまでになった写真家もいます。審査員も日本の写真界の中心にいるような錚々たる方々で、カメラマンとは全然方向が違う「写真家」の世界を目の当たりにしました。

「グランプリを撮ったんだから何か仕事が来るかな」「天王寺ミオの広告でも撮らせてもらえるかな」なんていう淡い期待をよそに、全く仕事の依頼が来ることはありませんでした。それもそのはず、クライアントのために写真を撮る「カメラマン」と、自分のために写真を撮って表現する「写真家」は全く違うものなのです。そのコンテストは広告、商業写真の分野ではなく、表現としての写真のコンテストなので当然ですが、それも分からないくらいまだまだ子どもでした。

受賞作品

受賞したシリーズ作品の一枚

その後、自分から動かなければダメだと一念発起し、出版社や雑誌の編集部の連絡先を調べ、作品を持ち込んで見てもらいました。プロ(編集者・写真を見るプロ)に面と向かって写真を見てもらうのも初めてなので、厳しい意見に好意的な意見、(今考えると)興味のなさそうな反応などに一喜一憂していました。
大阪から東京に引っ越してからも頻繁ではありませんが売り込みを続けて、結果、作品を掲載してくれた雑誌が2つ、自分の個展の情報を掲載してくれるようになった雑誌もあり、それなりに実を結ぶことになりました。

そして実際に待望の「仕事」をもらった雑誌もあったのですが、自分の提出した写真はボツになり、その雑誌から2回目の仕事依頼が来ることはありませんでした。(それでも懲りずにその編集者へ作品を見せに行っていました。)

「写真で食べていく」というレベルでは到底ありません。
それなりに年齢も重ね、結婚もした私は、

1)写真は趣味として割り切る。
2)他の仕事をしながら、空いた時間、稼いだお金をつぎ込んで写真家として活動をする。
3)商業写真のカメラマンとして一人前になる(「写真で食える」ようになる)。

という選択肢を考えるようになりました。

 

会社勤務(社内カメラマン担当)時代

29歳のときに東京へ引っ越し、楽器のドラムのメーカーで働くことになりました。社内での写真撮影、WEB、デザイン、営業まで担当し、製造に関すること以外はほぼ何でもしました。

ちなみに「もともと音楽をやっていた」と記事の最初の方で書きましたが、実はずっと音楽活動も続けていて、ドラマーとしてはロック、オルタナ、即興/インプロヴィゼーションなどのバンドをしながら、ソロ名義ではパソコンを中心にDTM、宅録で楽曲を制作していて、いわゆるエレクトロニカと呼ばれるような電子音楽のジャンル、界隈で活動をしていました。
音楽を本業の仕事にできる素質は自分にはないと分かっていたので、ミュージシャンとしてプロになる道は諦めていたのですが、ここで思わぬ形で音楽に関わる仕事に就くことになりました。

写真の話に戻すと、私が入る前から社内でカメラマン/デザイナーをしていた先輩は完全に独学で技術を身に付けていて、普通に写真を勉強してきたのとは違う発想や視点もあったりして、ここでもたくさんのことを学びました。
WEB制作やデザイン業務では、自分が撮った写真や取引先からもらう写真データを、デザインや宣伝に使うための素材として扱う立場であったため、それが逆説的に商業・広告カメラマンとしての「いい納品物の作り方」を考えるきっかけにもなりました。カメラマンが一枚の絵として表現して納得した写真≠(ノットイコール)クライアントやデザイナーが求める写真であることが多々あるのです。

数年後、この会社で働きながら週の半分はフリーランス、という形をとらせてもらうことになり、カメラマン/写真家両方としての営業活動、制作活動に身を入れていくことになりました。

次第に、先程挙げた選択肢の3番で足りなかったものを補い、

4)第一に商業写真のカメラマンとして一人前になり(「写真で食える」ようになり)ながら、好きな(お金にならない)写真を撮り写真家としての活動も続ける。

ということに向けて意識を持ち始めることになりました。

東京

東京(2010年頃)

 

広島に移住し、スタジオを構えるようになった現在

そんな経歴を経て、2011年の震災をきっかけに広島に移住して、以前の勤務先の仕事をもらいながら本格的に一人で独立して仕事をはじめることにしました。最初は、自分ひとりで撮ったことのなかった種類の撮影でも、「できます!」「撮れます!」と言って、師匠やこれまで見てきたカメラマンの撮影方法を思い出したり、それでも不安なときはインターネットや本、雑誌で一生懸命調べたりしました。前日に急いで機材を買いに走ったこともありました。

ようやく2017年に規模は小さいですがスタジオを構えることが出来、一通りのものが撮れるようになった現在でも、商品管理からアシスタント、ホテルの写真室、社内カメラマン時代のいろんな経験の引き出しが役に立っています。「師匠だったらこう撮るかな?」「あのカメラマンだったらこういう撮り方かな?」「でもそれは自分のやり方とは違うよな。」「今の時代だったらこっちの方が新しいな。」など、常にその引き出しもアップデートするように心がけています。

また、デジタルカメラが出てきた時は、まさか一眼レフカメラでムービーを撮ることができるようになるなんて思いもしませんでした。
映画好きから写真に転向したはずなのに、同じカメラでムービーを撮れてしまうので、巡り巡って映画の分析・研究をしていたことが動画の仕事ー実際の撮影、編集の技術、理論や感覚を身につけるのに活きてきます。
そして動画には音、音楽、録音も伴ってくるので、音楽活動をしていた知識と経験も非常に役立っています。

写真を始める前になんとなく取っていたカラーコーディネーターの資格も、単にコーディネートのことだけでなく、色や光の原理、太陽光や人工照明の特徴、仕組み、色温度についてなど、写真を仕事にする上で重要なことを事前に学ぶことが出来ていました。

10代、20代の頃から随分回り道をしてきたなあ、と思ったものですが、最後にはこうやって一つに繋がってきたのは自分でも驚きです。

スタジオ写真撮影 カメラマン 広島

以上、20代から今に至る経歴を追い、個人的な体験を綴ったものになりますが、カメラマン、フォトグラファー、写真家を目指す人、写真に関わる仕事に就きたいと考えている人へ、何かのヒントやきっかけになってくれたら幸いです。